カメさん日報です。
本日は、人を大切にする経営学会の3カ月に一度の視察会で、定員大幅オーバーの44名の学会員の方と一緒に、90年以上、黒字を続けるお菓子のあわしま堂佐野工場、さらに、ココ・ファーム・ワイナリーにお伺いしました。
あわしま堂の経営の見事でしたが、まず、ココ・ファーム・ワイナリーについて、共有化したいと思います。
事務局長佐井さんに、案内をいただきながら、施設の歴史と取り組みを詳しく教えていただきました。
ココ・ファーム・ワイナリーの元は、ここのみ学園です。ここのみ学園は、今でも、隣に併設して、平均年齢が55歳、最高齢93歳の知的障がいを主に持つ方が暮らしています。
ここのみ学園は、大正9年、栃木県佐野市生まれ、師範学校を卒業後、小学校教員、兵役を経て、戦後は中学校で特殊学級の担任、千葉県立袖ケ浦福祉センター施設長などを務めた川田昇さんが、昭和44年に、公的な援助なしに立ち上げた知的障がい者の自立のために作った学園です。
特殊学級の担任をしていた川田さんは、子どもたちの真っ白で、つるつるでやわらかな手を見て
「この手ではこの子たちは生きていけない」
と感じたとそうです。そして、何とか親無き後、この子供たちが自立して生活していけるようにと立ち上がました。
川田さんは、千葉県にある大きな施設の立上げをしていたことが、子供たちをたくましく自立できるようにしなければならないと感じた原点になっていると佐井さんが教えてくれました。千葉の立派な施設。昭和41年の当時としては、水洗トイレがあり、冷暖房完備と素晴らしい環境だったそうです。しかし、ようやく巣だって就職していった後に、また施設に戻ってきてしまうことが多かったそうです。務めた会社は、施設程、環境が良くないとなると、暑いからいや、寒いからいや、生活ができないから、と文句を言ったりして追い出されてしまったのです。決して、環境がいいことが、必ずしも、その子のためにならないといった思いから、我慢をすることの大切さを教えるこころみ学園、ココ・ファーム・ワイナリーの取り組みになっているのです。
川田さんは、最初は、学校から2キロ離れた渡良瀬川の河川敷に、特殊学級の子供たちを連れて行き、サツマイモやトウモロコシの栽培をスタート。勉強嫌いで机に座っていたくないために、子供たちは精を出して働きました。重労働を我慢の過程を通して、子供たちは集中力を高めていったそうです。しかし、河川敷だと、せっかく作った野菜が、雨で流されてしまうことも少なくありませんでした。そこで、学校から5キロ離れたこの山を開墾することにしました。これが、今でも数多くのぶどうが植えられている急斜面のぶどう畑です。
不安定な急斜面での作業には、脳がつかさどるさまざまな感覚を高める効果もありました。バランス感覚に欠ける知的障害の子供は、原木を担いで、急斜面の昇り降りを繰り返すことで、しだいにたくましくなっていったと言います。急傾斜で石だらけのため、植林に不向きということで、格安で買えました。やせた土地の方が適しているキャンベル、デラウェアなどのぶどう作りと、伐採した原木を生かしたシイタケ栽培を続けてきました。
人や社会の役に立つ人間を育むべく、スキーのジャンプでも36度なのに、38度という急こう配の山は、下から見上げても、頂上まで登れるだろうか・・と感じます。
「頭で食えないなら、体で食えるようになればいいじゃないか」と、約50年前、子供たちと2年間かけて、山林を切り開き、苗木を植えて始めたぶどう畑は、今でも、ワイナリーの前に広がっています。どんなつらいことも平気でやり抜く勤勉な子ども達は、次第に、自信に満ちた農夫に成長したのです。そして、真っ白だったやわらかな手は、たくましい男の働く手に変わっていったのです。
川田さんが私財を投入し足利の山を購入して、50数年間、一生を捧げて取り組んできた思いでいっぱいの施設を回るうちに、想像だもできない数えきれないほどの困難があっただろう・・・・と胸が熱くなりました。
最初、ぶどうをそのまま出荷していたそうですが、不作の年があると、次のぶどうを育てる資金が回りません。そのために、大のお酒好きだった川田さんは、ワインに取り組むと言いだします。周りは冷ややかだったそうですが、
「とにかくいいものをつくる。障がいを売り物にしない。お涙頂戴で買ってもらっても一度だけ。本当にいいものをつくる」繰り返しいいました。
そうした経緯があり、1980年に、園生の自立のためにこころみ学園の考え方に賛同する父兄の出資により有限会社ココ・ファーム・ワイナリーを設立されました。
さらに、1984年に醸造の許可を得てワインづくりをはじめ、その年12.000本を出荷します。こころみ学園の生徒たちは虫を避けるためにぶどうの房を包んだり、からすを追い払うためにぶどう畑を見回ったり、収穫をし、ボトル詰めを手伝います。障害が比較的軽い生徒達は、ぶどうを押しつぶす機械の操作も手伝います。
1989年にはワイン用のぶどう畑2ヘクタールを佐野市に開墾し、カルフォルニアのソノマに5ヘクタールを確保した。また同年、ココファームでの質の高いワイン造りをめざした川田さんは、カルフォルニアのナパバレーの”ワインづくりの問題解決屋”ブルース・ガットラブ氏を6ヶ月間という約束で招聘するなど、努力を重ねていきました。
こうしたした苦労が実り、今世紀最後のサミットが、2000年7月沖縄で開催の最後の晩餐会が首里城の北殿で行われましたが、ココ・ファームワイナリーのワインが首脳会議での食卓をかざることになったのです。
残念ながら、2010年に川田昇先生は他界しましたが、本物の教育者とは何かを教えてくれたと思います。多くの人に、訪れてほしいと思います。
ココファームの取り組みがYOU TUBEの上がっていました。
コメント