カメさん日報です。
本日は、先日の2月4日、カンブリア宮殿で取り上げれたピーターパンに坂本先生らとお伺いし、創業者の横手和彦社長と、後継者の大橋珠生専務(娘さん)にお話をいただきました。3年前にの友人の武蔵境自動車学校の高橋明希社長と一緒に取材したことがありますので、2回の視察でお聞きしたことを合わせて情報提供したいと思います。
ピーターパンは、カンブリ宮殿だけでなく数多くのメディアで取り上げられている感動のパン屋さんです。
コーヒーや麦茶の無料サービス、焼き立てのパンができると、その場で「〇〇のパンができあがりあましたので、今、手に取ったパンがありましたら、取り替えます」と来店されているお客様にお伝えします。
パンは生きていて、作って2時間が寿命であるといったことから、2時間以内のパンを店に置かないといったこだわりから、お客様は小さなお店で5店舗程の規模ですが、平日でも第1から第4駐車場まで平日でも満車で、パンを買うために行列ができています。
<ピーターパンの経営理念>
お客さまを笑顔とおもてなしの心でお迎えし、 常に品質を向上させ,おいしい焼きたてのパンを提供します。
一人ひとりの可能性を尊重し、共に学び共に成長し、 お客さまと共に幸せになります。
なぜ、この経営理念になったかを横手さんに教えていただきました。
横手さんは、愛媛県の離島のミカン農家で出身。8人姉弟の末っ子の長男。大学卒業後、「愛媛信用金庫」に就職しますが、細かいことが苦手で、お金を数える仕事は、桁を間違えてしまってはいけないと、2年で退職して、24歳の時に500万円を持って上京しバーテンダーの見習いをします。27歳で青山に「レストランクラブ ぎんなん」をオープン。業績は、順調でした。
ある時、奥さんが病気になったことで、娘さんを店に連れていったときに、「お父さんって仕事にしてないのね!」と言われました。お客とタバコ吸って、お客さんと喋っている様子が、仕事をしているように見えなかったからです。
自分の子供に、自分が汗水たらして働く姿を見せたいと思い、その時に、水商売から足を洗おうと考え、順調だった「レストランクラブ ぎんなん」を人に任せて33歳の時に、パン屋の職人になるために修行。その後、昭和52年4月にピーターパンを設立しました。
横手さんは、ピーターパンという屋号のパン屋を創業しましたが、最初、うまくいきません。それでも、瀬戸内海の島に帰るわけがいかない・・という中で頑張っても成果に繋がらない時代が続いたそうです。売上が上がらず、うまくいかなかったときは、いつも、次のように考えていたそうです。
「子供ができて、何かやらかす度に、学校の先生や同級生の親に謝罪に行って頭を下げる。8人兄弟で8番目に生まれで唯一の男であったこともあり、姉さんたちが嫁に行ったために、瀬戸内海の島から年老いた母親を千葉に呼び寄せ面倒を見ますが、近所の方に迷惑を掛けるので、その度に、謝りに行って頭を下げる。いずれにしても、子供も親も何回話しても言うことを聞かない。お客様の満足を上げようと、従業員に躾その他をしようとするが、なかなか従業員もいうことを聞かない。そんなことがあって、お客様も思う通りに来てくれないどころかクレームも言われる。なんで、俺の言うことがわからないんだ!」
田舎から出てきて30年以上になるそうですが、人一倍働いてもうまくいかないのです。
何とかしたいと、日創研の田舞代表を訪ねてお話を聞きにいったり、、サイゼリヤの正垣泰彦会長に教えをこいに通いました。
田舞さんのところに勉強に行き出した頃、ピザの宅配とパン屋をやっていて、ピザの宅配の方が売上が多い状況でした。ところが、日創研の研修で経営計画を発表をした際、一緒に参加していた経営者から、「宅配ピザは、やめた方がいい。値引き合戦、アルバイトが集まらなくなる、原価が上がるから、いずれ利益が出なくなる」といったフィードバックでした。横手さんは、それはそうかもしれないが、売上の3分の2は宅配ピザで簡単にやめられないと思ったそうです。しかし、宅配ピザだけでなく、何でもやるといったフランチャイズだったので、悩んだ末にやめようと脱会しました。
その後、苦しさから立ち上がって、経営計画のことで叱咤激励の毎日。店を回ると、またきたか・・・という顔をされました。横手さんは、感受性が強いので、迎いられている店とそうでない店を感じたそうです。数字ばっかり追っていても、経営していても楽しくない。理論的に説明しても誰もついてこない。何のために、経営しているのだろうか?
チェーンストアを学んでいたので、規模拡大を目指したがなかなかできないし、自分自身が楽しくないのです。
もともと、素人だった横手さん自身が、何をもって、お客様に主張できるだろうか?と考えました。
それで、行きついたのが、「焼きたてだったらできる」でした。これが、冒頭で紹介した「パンは寿命は2時間。焼き立てのパンができたら交換する」ということに繋がっているのです。
また、パンの生地やクリームなどの工夫をいろいろするようになります。そうしているうちに、33歳でパン屋を始めた頃、創意工夫しながらお客様が喜んでくれるのは楽しかったことを思い出したのです。
食パンは、床にたたきつけると空気が入って腰がかわいそうだと人から言われて、やさしいすると、腰が出ない・・なかなかうまくいかないが、お客様に喜んでもらうと、嬉しい。楽しい・・・と創意工夫しながら、こんなのがいいね!とやっていた楽しい日々感じていた当時のことです。創業の時のことを思い出した時、既に55歳になっていました。今からやっても規模拡大はできないし、お客様が見える方がいいと考えて、宅配ピザの方を社員に、思い切って別会社にして任せたのです。
パンに特化するにあたって、どんなパンがやりたいか・・・といったとき、同じやるんだったら、楽しい、心豊かなパン屋でやれればいいと思った。そういうパン屋はどういうパン屋か・・・
「ちょっと豊なちょっとおしゃれな食文化を提供するパン屋」を目指しました。
ところが、一方、その当時の販売マネジャーは、数字のことで文句ばかり言っていました。それでも、横手さんが、根気よく、お客様と会話をしながら、見ながら・・・といったことを話し続けたら、賛同してくれる社員がでてきます。その社員に、どんなパン屋をやりたいと聞くと、「労働時間が短くてもいい。自動販売機ではない、お客様と会話ができる」でした。そこで、市場じゃない。工房だよな~となって、小麦工房、ピーターパンという名前にしました。
丁度、その時、国税局の購買の物件出ました。住宅街の真ん中でした。横手さんは日商30万で年商1億できると確信して、いろいろな人に話しましたが誰からも無理だと言われました。ところが、日販は、いきなり50万~60万売れたのです。その時、今までの蓄えをつぎ込んで、土地を買って、1店、2店でいいといった考えからログハウス風でおしゃれの店にした。その際、上をアパートにして収益を安定させるといったアイデアもありましたが生活の色がでるのでやめました。また、友人だった感動のパン屋の茨城県クーロンヌジャポンの田島社長に相談して、無料でコーヒーを出すことも始めました。
「コンセプトに忠実に作ったその店が私を育ててくれた」
と横手さんは言われました。
「このさびれた商店街にこんないい店を作ってくれたね・・・」と、おばあさんに手を握ってくれた話してくれました。
「お父さんが一緒に、パン屋に行ってくれるようになった」いったお話もお客様から聞きました。
その後も、コンセプト通りに、改善をしたり改装したりしていく過程で、1億9千万の店が、3億7千万の倍になったのです。新しい店も、既存店も売上はドンドン伸びていったのです。
同時期に、サイゼリアの正垣さんのところでも勉強しました。正垣さんからは、美味しさを定義することの重要性を教えられました。具体的には、LOOK(見た目),テイスト(口当たり)フレーバー(香)アロマ(後味)、プライス(価格)を徹底的に考えることの大切さです。
渋谷栄一の論語とそろばんではありませんが、理念と実際のビジネスを学んで、『なんで俺の言うことがわからないんだ!ではなく、どうしたら、喜んでいただけるのだろう?』と考え方を改めるようになった途端に、逆にうまく回り出して行列ができる位の繁盛店になっていったのです。
お客様が喜ぶ、従業員が喜ぶ店ならと考えてやってきたことで、売上数字を追っていて苦しんでいたときとは逆に、店は発展していったのです。さらに、新しい店は、前の店をすべてバージョンアップしていきました。すると、70万~80万売れば上等と思っていた店で、いきなり100万の日商になりました。そして、3店で10億を越すようになりました。そうしたら、銀行や不動産屋から物件の紹介を持ってくるようになります。いい物件が紹介されて、また売上が上がるといった好循環になっていったのです。
「売上を追うと、売上は逃げる。社員やお客様が喜ぶようなことをする。大切にする。それを、店のコンセプトにしたり、美味しさを定義するなどで、具体化させる。その結果、売上が上がる。」
ピーターパンは、「このことを身を持って証明した」いい事例だと思います。
坂本先生は、お土産に改善点も指摘されましたが、横手さんは、素直に受け入れられました。こうした経営者の姿勢であれば、まだまだ、進化する企業だと思います。
それにしても、お土産で買った食パンが、今日の朝食ですが、大手パン製造会社が、イースト菌を使い機械生産したパンとは比べ物にならない、美味しいパンでした。
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