カメさん日報です。
本日は、某団体の中核人材育成の経営理念~戦略のセッションを担当しました。
その際、感じたのは、本から入った知識と、実際の経験から得たことのギャップです。ナレッジマネジメントその他、本から得た知識で、わかっていては、経営学かもしれませんが、「経営」ではありません。分かったような気になっていても、それはそれで致し方がないことかもしれません。肌感覚で思いますが、本から入った人ほど、戦略的でないと感じるのは間違いでしょうか。
さて、今日は、私の企業感を変えた企業のことをご紹介したいと思います。
味の明太子 ふくやは、当時、慶応大学院の小野先生(現中部大学学長)から教えていただいた以来、ずっと研究している企業です。辛子明太子の元祖で、10年掛けて開発した製法を他のお店に教えて回り、さらに、独自色を出すように指導したり、冷蔵庫の温度や生ものである辛子明太子の保存方法など、自分が知り得たものを全てオープンにしたことで、1960年過ぎからと歴史は浅くても博多の名産になりました。
受けた恩は石に刻め、施した恩は水に流せ (ふくや創業者 故川原俊夫)
は、有名な言葉になりましたが、まさに、川原俊夫さんは、利他が服を着て歩いているような人だと思いますし、今の、正孝社長にも受け継がれています。
売上200億近い会社ながら、本社は至って質素で本当に狭くてビックリします。部長も3人しかおらず、他の社員は全員肩書もなし。終身雇用。教育は入社後1年かけて販売士他、さまざまな勉強を総務スタッフもふくめて受けさせるよに教育熱心。年功序列でもなく、自然に、できる人がその仕事が集まる仕事の進め方。トヨタの生産方式を勉強して導入しながら、トヨタとは考え方が異なり、「無駄が重要で、無理な合理化はするな」が方針。と、まさに、独自の経営の考え方を持つチャーミングな会社です。また、川原社長も含めて、全員が「さんづけ」で呼び合うアットフォームな企業です。
以前、インタビューした際、本にも書かなかったエピソードを一つだけ紹介します。
現在、福岡では不法な屋台出店が問題になり、行政でも観光や文化と秩序の両面で適正化に取り組んでいますが、以前、夜の8時に閉店した後、中州ふくや本店のシャッターの前に屋台が出ていたことがあります。当然、気づいた他の社員は、店の前なので止めさせた方がいい。となったそうですが、故川原俊夫氏は、「商売ができて生活できるのであれば、いいではないか?」といってそのままにしたそうです。
そして、長年、ふくや本店の前で屋台は商売を続けましたが、本店の裏で家事があったときに、火事を発見して、消防車を呼んでふくや本店に火事が及ぶところを防いだのは、年老いた屋台の店主です。もし、その屋台を追い出していたら、今のふくやはありません。
さて、ふくやの川原社長は、破たんした地域の企業の再生に取り組んでいます。数年前に、海岸沿いのサンパレスホテルの再生を7年かけて黒字化しました。ゴマ焼酎の紅乙女は、過疎地域の雇用約50人を守るために取り組み、昨年、目途が経ちました。
川原社長の独自の再生の方法をご紹介します。川原社長は、企業が再生した後も、元気で永続することが大切であると考え、ふくやから一人だけ送り込みますが、位置づけは「ふくやの川原との連絡係」だそうです。
給料が下がり、実質上の倒産でモチベーションが下がっているときに、外部から人が来て、残った社員にあれやれ!これやれ!いっても逆効果であるし、財務的に立ち直っても、人が育たないと長続きしないので、残った社員で知恵を汗を出させる進め方です。
サンパレスが巨額の赤字を抱えて倒産し、ふくやが支援に入った際、ベテランの料理長他集団で辞めてしまい、さらに危機になりましたが、あくまでも、残ったまだ経験が不足しているとも思われる社員の主体性を大切にし、川原さんの人脈で、全日空ホテルの料理長他、部分的、パートタイム的な支援はしましたが、決して統制せず、モチベーションが上がるのを一番大切にしたそうです。その結果、立地も悪く、ホテルの供給過剰な博多において黒字化して継続させているのはさすがだと思います。
なぜ、こうしたことを無償でできるのでしょうか?それは、お父さんである川原郁夫さんのDNAが、脈々と川原正孝社長に受け継がれているからだと思います。
他界して、なお、影響力の残すのは、まさに、利他、思いを持った選ばれた人なのだと思います。
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