カメさん日報です。
8月5日に「いい会社」のつくり方を、3年振りに出しましたが、相変わらず、「いい会社」を求めて、視察研究を継続しています。ブログでの紹介が追いついていませんが、少しずつ情報提供していきたいと思います。
埼玉県比企郡ときがわ街、無人駅の明覚駅を降りて、国道沿いに600メートルしたところに、とうふ工房わたなべがあります。近づくと、同店の大きな駐車場に、自動車が入り切れないほど駐車しており、店舗の周りでは、数多くの買い物客がいたり、豆腐ドーナッツ、アイスクリームなどを樹木で日陰をつくった椅子で食べていたりと、活気にあふれています。

1.豆腐屋の歴史と現状の中での試行錯誤
昭和30年代には5万余の事業所に達していましたが、年々減少しています。平成28年の現在、約8000店となっています。要因は、機械化 が取り入れられたこと、スーパー等大型店を通す販売が進み、ある程度の事業規模が必要となったからです。生産量や消費量は、先の大豆の使用 量から見ても大きな変化はありません。
昭和40年代から50年代に大量生産、大量消費の時代。食品の工業化、大量生産化が進みました。また、スーパーマーケットが台頭していたことが影響しています。渡邉一美代表は、豆腐屋二代目。お父さんの後を継いでしばらくは、堅実経営でやってきました。多くの豆腐屋さんは、家内工業。夫婦二人とパートといった感じです。とうふ工房わたなべも同じで、渡邉さんが、家業を継いだ時には、年商1500万月売上で、家族とパート数人であえば、食っていくには困りませんでした。
しかし、スーパーマーケットが台頭してくると、渡邉さんは卸はじめたのです。スーパーマーケット勢いのある時は、出店が多く、それによって、年商は1500万から1億円になりと伸びていったのです。そして、スーパーマーケットの卸を中心にやっていくようになっていきました。しかし、昭和から平成にかけて、スーパーマーケットの様子が変わっていきました。地元のヤオコーやベルクが、売り場面積を大きくして、ショッピングモールを出し、さらに、コンビニエンスストアー、ドラッグストアーを出すようになっていきました。渡邉さんのところは、地場のスーパーを卸していましたが、安売りでは、大量に仕入れる大手には敵う訳がありません。
大手の流通が生産地と直取引に変わって、食品スーパーの問屋や市場も衰退していったのです。そうした中で、とうふ工房わたなべのう1億円売上は、徐々に下がっていきました。また、商品を卸しても回収も遅れるようになっていくようになりました。今でしたら、支払いがある程度、滞ると出荷を止めるといった対応になりますが、当時は、地元の人間対人間で、少し待ってくれと頼まれると、なかなか断れないといったこともありました。徐々に、スーパーマーケットへの卸に疑問を持っていき、こんなことしていていいのか?と考えるようになったが、どうしたらいいかわかりませんでした。二曲分化が進んでいき、大手製造会社か、製造直販の豆腐屋かのどちらかでないと生き残れなくなり、卸の豆腐が苦しくなっていったのです。業態を変えないといけないが、やり方が分りません。昔は、ラッパを売り行ってといった時代がありましたが、そういう商売には、コンプレックスを感じていましたし、豆腐屋は、3K職場で誇りを持てるものではありませんでした。
2.有機農業の金子氏との出会いと生活クラブとのご縁
そうした時に、有機農業でカリスマと言われていた小川町の金子さんとの出会いがありました。
日本で、大豆の遺伝子組み換えが問題になったときに、地元で勉強会を開いた時、そこに農業者の人達の中に、金子さんも参加していたのです。その勉強会に参加するうちに、その勉強会の主催である生活クラブから国産大豆で豆腐を作って欲しいといった要望がありました。
渡邉さんは、最初、農業は、マイナーなイメージがありましたが、勉強会に参加する内に、面白いと感じるようになりました。例えば、有機農家は、30名~50名のお客様と提携という形になれば、なんとか食っていけるといったことを聞きました。実際、お米を中心に、野菜、鶏の卵を消費者に提供しており、消費者も有機農家とWIN-WINの関係があったのです。豆腐にそうした考え方はなかったので、300軒、500軒を有機農家と同じように、直取引できたらと、夢のようなことを考えていました。
勉強会に参加する内に、国産大豆で渡邉さんに豆腐を作ってもらえませんか?作るとしたら、どこの大豆がいいですかと聞かれたので、北海道と応えたそうです。また、北海道の大豆でつくると、にがり100%でといったら値段が200円以上になってしまうと応えると、値段は高くてもいいので、まず、作ってくださいと言われました。1回つくるので70丁できるが、全部買わないと採算が合わないというと、それでもいいと言われましたのです。
渡邉さんは、当初、半信半疑で、生活クラブの人も最初の2ヵ月か3カ月で飽きてしまうだろうから。最初は、本気ではなく、輸入大豆が中心で、まずスーパーの卸をやりながら片手間でといった位の気持ちでしたが、友達が友達を紹介してくれて、140丁、210丁と倍々になっていき大ブレイクしたのです。初めてみると、現金払いなので、資金繰りが良くなりました。また、美味しい豆腐を作っているといった噂になり、お店に寄ってみようと10人から20人から30人と増えてくるようになりました。しかし、まだまだ、本格的に店舗中心にという決断まではできませんでした。
3.川野コンサルタントとの出会い
2年~3年経って、地元の商工会の専門家派遣制度を利用すると、川野さんとうコンサルタントの先生が来店されました。地場のスーパーマーケットの売上は半分になっていたころです。
スーパーで、豆腐が特売品になると、100円の豆腐が、300丁400丁も売れてしまいます。対応するために、たくさんの豆腐を作って納めなければなりません。オールステンレスの容器を買ったばかり、大型の機械や配送車を見ていました
一方、奥さんは、お店で直接、お客様と話をしたりすると商売が楽しい。最近、美味しいね!と言ってくれるので嬉しい!といった光景もみて、川野さんは、次のようにつぶやきました。
「スーパーの安売りのために入れたんですね。一方、奥さんは、お店で、お茶を入れたり、いなり寿司をどうですか?と接客されていますが、その方が楽しそうですね。スーパーの安売りのためでなく、ここに来る、お客様のために、投資したらどうですか?」
スーパーマーケットの安売りのためでなく、お店のために使え!と言われて、これからは、安心安全を優先でいこうと腹が決まったのです。
そして、お店に来るお客様ために、店舗を近くに立て直したのです。
4.素性のわかる給食に取り組むグループとの出会い
また、もう一つ、とうふ工房わたなべの事業の方向性を決定する出会いがありました。
武蔵野境南小学校、給食に食材に絞ってやっているグループで、「素性のわかる給食」に取り組んでいたのです。
これにヒントを得て、「素性のわかる豆腐づくり」という経営理念ができました。
たしかに、大豆は北海道もいいですが、素性は、誰が作ったか、どこで補完されたのか、わかりません。それで、地元の農家に切り替えたのです。
地元農家とは、
①全量買い上げ
②現金
③来年も大豆を仕入れることの保証
④再生産可能な価格
で取引を進めていきました。すると、小川町だけでなく、他の地域もいい大豆を作ってくるれるようになっていきました。
5.地域ブランドを強化する
渡邉さんは、
「川越手前まではブランドがある。しかし、それを越えるとブランドが効かない。20キロ半径が第一エリアであり、豆腐の支持率を高めていきたい」
と言います。最近は、買い物難民へのサービスと、他県から入ってきた同業者に対抗するために、移動販売も始めました。
埼玉の豆腐が高いね。といわれたことがあるそうです。100円か150円で高いね。他県では、数十円で売っているのに、200円300円の豆腐は、普段使いをしてくれるという食文化を形成しているのです。
5.家業から企業への脱皮
現在、売上3億7千万、正社員20名とパート17名の計37名と成長しています。厚生年金や社会保険を完備し、完全週休2日、有休消化に力を入れるなど、確実に企業に成長しています。
今後、ローカルブランドの確立をし、さらに、震災があっても、社員と家族の生活を守るために、安定基盤ができるような取り組みに注力をしているそうです。
私自身、公益財団法人埼玉りそな産業経済振興財団のローカルブランド研究会のアドバイザーとして、7月から参加していますが、最初に、発表されたのは、とうふ工房わたなべの渡邉代表でした。私自身、5~6年前に、一度、お邪魔していますが、さらに、進化したお話を聞いて、その後、渡邉さんを訪ねました。
ナショナルブランド、プライベートブランド、定着しました。しかし、すでに、お客様は、スーパーマーケットでの買い物に飽きているのではないでしょうか?
さらに、これからは、ローカルブランドの確立が、地方創生の鍵になると思います。そして、そのいい事例が、とうふ工房わたなべの変革への取り組みだと思います。
5年前に、大和田さんと小川町に訪ねたときに、丁度、発売されていた本です。

